ベトナム人(キン族)は、紀元前からホンハ・デルタ(今のハノイ近辺)に住んでいたと言われる。紀元前1世紀頃から北部~中部ベトナムは中国の支配下に入り、以来10世紀に渡って支配されていた。そのため13世紀頃までベトナム語は漢字を用いていた(例・ベトナム=越南)。
10~18世紀は中国に対する独立闘争と、各地の王朝同士の内戦に明け暮れた。ベトナムに統一王朝が誕生したのは18世紀末のことである。
しかし、統一からまもない18世紀中頃からフランスの植民地支配の手が及び、18世紀末にはカンボジアとベトナムが仏領インドシナ連邦となった。これに対して1930年にホーチミンらによってベトナム共産党が設立され、1940年に日本がインドシナに侵攻すると、ベトミン(ベトナム独立同盟会)を組織して、日本とフランスの双方に対する独立闘争を闘った。1945年に日本が敗戦すると、ホーチミンらはベトナムの独立を宣言したが、フランスはそれを認めず、ベトナムとフランスの間で第一次ベトナム戦争が始まった。1954年にフランス軍はディエンビエンフーで大敗し、ベトナムから撤退したが、 アメリカは南ベトナムにかいらい政権を立て、南北ベトナムを分断した。
1960年、南ベトナムに南ベトナム解放民族戦線が結成され、北ベトナム=南ベトナム解放民族戦線と南ベトナム政府=アメリカ軍の間で第二次インドシナ戦争(いわゆるベトナム戦争)が始まった。15年にわたる総力戦の末、北ベトナム=南ベトナム解放民族戦線側が勝利したのは1975年のことだった。
ベトナム社会主義共和国はベトナム戦争で荒れ果てた国土の再建に取り組んだが、一方で共産主義をきらった数十万人の難民流出、カンボジア内戦への介入、中国との国境紛争、アメリカ主導の国際的な経済制裁などで、国際社会から孤立していった。しかし、1986年のドイモイ(経済刷新)政策導入以来、カンボジアからの撤兵、経済自由化など柔軟な政策をとりはじめ、ついに1995年、米国の経済制裁が解除されて、国際社会への本格的復帰をはたしている。
-自然
面積は約33万平方キロで、日本から九州を除いた程度。人口は約7千万人。北部は亜熱帯気候で、四季の変化に富んでいる。南部は熱帯モンスーン気候で、雨季(5~10月)と乾季(11~4月)に分かれている。
国土は大きく分けて北部・中部・南部に分かれている。
[北部]ハノイを中心としたホンハ(紅河)デルタと周辺の山岳地帯からなる。ホンハ・デルタは大穀倉地帯であり、周辺の山岳部には豊かな鉱物資源がある。
[中部]はフエ、ホイアンなど古くからの交易港が多く、古都の面影を残している。山脈が海岸線に迫り平野に乏しいこの地方は、観光開発に活路を見いだそうとしている。
[南部]のメコン・デルタは、ホンハ・デルタをもしのぐ最大の穀倉地帯で、ホーチミン市(人口655万人)は首都ハノイ(634万人)をしのぐベトナム最大の都市となっている(データは2009年)。この膨大な人口を背景に、南部では消費財の生産やサービス業、外国資本による自由貿易区などが活発である。
<カオバン中越国境の滝>
-社会
人口8千万のうちベトナム人(キン族)は85%(キン=京で、「都人(みやこびと)」という意味)。残り15%を53の少数民族が占める。多くは中国・ラオス・カンボジアとの国境の山岳地帯に暮らしている。山岳民族は定住・農耕生活に完全に適応しておらず、貨幣経済の浸透で貧しい暮らしを余儀なくされている。
人口の4割が14歳以下、6割が24歳以下と、国民が若いのが特徴。識字率90%、勤勉な国民性とあいまって、人的資源はベトナム最大の武器だ。しかし、義務教育(中学)の有償化や教育インフラ(学校、教材、教師)の欠乏なから、子どもの就学率は年々下がっている。
宗教的には仏教が最大宗派(8割)だが、フランス統治以来のキリスト教(9%)、特にカトリック教会が、南部を中心に大きな影響力をもっている。他にカオダイ教、オアハオ教など土着の独自な信仰もある。さらに、こうした信仰の基底に中国支配以来の儒教があり、さらにその奥に紀元前からの精霊信仰が今も息づいている。
このように民族的にも宗教的にも、そして地域的にも多様な国民性が存在し、一口に共産主義という言葉ではくくれないのがベトナム社会だ。